"Undone" (Amazon original) の感想、考察、解説

こんにちは。

今回はamazon original作品である"Undone" (日本語:アンダンー時を超える者ー)

について書きたいと思います。

 

事故

事故

  • メディア: Prime Video
 

 

まずはこのシリーズのイラスト。

はじめにこれを見た時はアニメなのか実写なのか見当がつきませんでした。

 

この作品の映像は特殊で、おそらく実際にカメラで撮影したものを加工して、

イラストチックな仕上げにしている。

そしてところどころに後からイラストなどをCGとして加えて完成させているもの

だと思われます。

 

 

この見慣れないテクスチャーの映像の心地悪さに

徐々に慣れるだろうと思っていましたが、

最後まであまり慣れずに終わりました。

 

この映像に対して批判的な意見を述べている人もいますが、

私はこのユニークな心地悪さがどこか好きです。。。

 

 

さて、映像についての話はおいておいて

あらすじについて。

 

 

あらすじ

主人公のアルマは聴覚に障害を持っている女性。

普段は補聴器を付けて生活をしていて、それを外すと音がほとんど聞こえなくなってしまう。

 

幼いころに大好きな父を亡くし、その後母と妹の三人で過ごしてきた。

 

父の死因についてはあまり知らず、母は何かしらの事情を知っているらしいが

娘たちには多くを語りたがらず隠しています。

 

ある日からアルマは父の姿が見えるようになった。(他の人には見えていない)

 

父が言うには、アルマは時空間を移動できる特殊能力と才能を持っているから

それを訓練することで自由自在にその能力を使えるようになれると。

 

父は自分は交通事故ではなく、他の人に殺されたのでその犯人を突き止めて

さらに、過去に戻ってそれを防いでほしいとお願いします。

 

主人公のアルマは徐々に自由にその能力を使えるようになって最終的に

父が死んだ日に戻ることができて真犯人を突き止めに行きます。

 

しかし、そこで見たのは殺害される父ではなく、

自暴自棄になって教え子の女性と無理心中を図って死ぬ父でした。

 

アルマの中に現れる父は、自分が殺されたわけでは無く、自分が身勝手であったことを

知りアルマに謝って去ろうとしますが、

アルマはその無理心中も防げるではないかと挑戦します。

 

 

そして父が生きている世界線に切り替えて、洞窟での再開を約束する。

ただ、約束の場所に行くが父が来ないということを知って話は終わります。

 

 

考察

このドラマは一瞬、SFチックなお話かと思ってました。

はじめの数話はそう思ってました。

ただ、そう考えると

実際コメント欄で批判的なことを書いている人がいるように

SFやファンタジーにしては面白くありません。

 

しかし、このドラマはもっと深い意味を持つものであると私は考えます。

どちらかというとドキュメンタリーに近いと。

 

主人公アルマの周りの人物は、アルマが体験している時空間の移動や

父の姿が見えていないため、アルマは精神疾患を患っていると考えています。

 

ただ、アルマにしてみればそんなことは余計なお世話です。

 

 

 

このストーリーのメインテーマはずばり統合失調症(Schizophrenia)です。

 

たまに町で独り言を大声で話していたりすると、

私たちはすぐに、あの人はやばい人だ、頭がおかしい、と決めつけてしまいます。

 

ただ、その人たち側に立って考えたことはあるのかどうかということです。

その幻覚、幻聴と呼ばれるものを見たり聞いたりする人たちがどのようなことを

体験しているのかということを映像で再現したものが本作品であると感じます。

(そしてそれを本人、そしてその外側からの立場それぞれに立って

映像として仕上げているため、どちらの立場でも感情が移入できるようになっています。)

 

私たちは、

その人が見ている世界が自分たちとは違うから、

理解できないから、

というだけですぐに病気扱いしたり、狂人扱いしてしまいます。

 

ただ、それはその人たちが見ている世界を見ていない人たちが大多数で、

自分がその大多数にいるというだけのことです。

 

大多数に自分が属しているから自分は正しい自分の見ている世界は正解

そんなことを言うことは決してできません。

 

幻覚を見ている人の世界を外部の人間が否定する権利など、一切ありません。

 

別にどちらが正しいかなど決める必要はないと思います。

結局この世の中は多数派がdominantに支配している構造が多いですが、

その現状に疑問を投げかけているのが本作品であると考えます。

 

 

幻覚幻聴を見聞きする人たちを見ても、これからは

「この人頭おかしい」ではなく、

「この人にはこの人の世界があるのか。どんな世界だろう?」、

そんな考え方になると思います。

 

自分の立場から物事を考えず、相手の立場に立って考える。

別にそれによって理解できるかは別です。

ただ、そのようなマインドを持つことで、心に余裕が生まれ、

少し心が開き、寛大さが増し、

反射的に批判的になってしまうことが防がれるのではないかと思います。

 

 

自分と""であるものを、

自分の中の辞書にないものを、

拒絶するのではなく、

ありのままで受け入れてみる

 

この作品を見ることによって、

そんなことができるような人が増えればと願っております。

 

 

今回の感想、考察は以上です。

まだ見てない方はぜひ見てみてください。

あなたはこの作品で何を感じるでしょうか。

 

 

 

 

私がこのような考えを持ったのは最近、

youtubeで"Schizophrenia"と検索して、実際にその患者と言われている人たちの

映像を記録したものを何個か見たからかもしれません。

なかなかの衝撃でした。

この人たちは何を考えているのか、何を思っているのか。

明らかに自分が見ている世界と違う世界を見ているその人たちに

ショックを受けるとともに、別に個々の世界があっていいではないか、と

思うようになりました。

 

気になった方はぜひ検索してみてみてください。

 

 

 

三島由紀夫「金閣寺」を読んで

 こんにちは。

前回の投稿からだいぶ時間が空いてしまっていて、久しぶりの投稿です。

 

今回は三島由紀夫著の「金閣寺」について書いていきたいと思います。

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫とは日本人であれば誰もがその名前を知っていることと思います。

 

私も以前から名前といくつかの有名な作品名、

また最後は自害して亡くなったということくらいは知っていましたが

実際に本を読んだことはなかったので

今回読んでみることにしました。

 

補足

内容に入る前に補足ですが、現在は三島の作品は電子版(kindleなど)では販売はしていないということです。

親族の意向によって、紙媒体の販売のみされているということらしいのでその点はお気を付けください。

 

内容

(ネタばれを含んでいる可能性がありますので、まだ読んでいないという方はお気を付けください。)

タイトルの通り、「金閣寺」をテーマにした小説です。

 

実際に1950年あたりに金閣寺が燃やされるという事件があり、

三島はその事件を背景に犯人がどのような人物であったのかということを

(おそらく想像で)小説にしたものです。

実際にこの犯人はそこの青年僧であり、犯行の動機として

「美に対する反感」と述べており、それに三島が刺激を受けて筆を握ったものです。

 

 

 

主人公の溝口は寺の息子でした。

幼いころからよく父親からいかに金閣寺は美しいものなのかということを聞かされており、あんなに美しいものはないという父親の話を聞いて、

主人公の中では「美」というものそのものが「金閣寺」である、というように考えるようになっていました。

もちろん金閣寺を実際に見たことはなかったのですが、

なにか「美」について考える時の絶対的基準、そして軸として「金閣寺」をおくようになっていました。

 

あるとき、父親に連れられて実際に金閣寺を見に行くことになるのですが、

目の前にしてみた金閣寺は自分が今までイメージしていた「美しいもの」とは違っていて、

主人公の中で「美」というものがある意味崩れてしまったとでも言いましょう。

 

父親の死後、両親の意向もあって金閣寺のお寺に入ってそこで弟子入りすることになるのですが、

徐々にそこに絶対的に、そして半永久的に存在している金閣寺に対して美しさというも見出し始めます。

 

そんな金閣寺であって戦時中の空爆によって一瞬にして壊れる可能性がある、

そしてその時は自分も空爆で死に、その金閣寺とともに終わりを迎えるのだ、

と考えることにある種のロマンを感じます。

 

しかし戦争が終わり、そんな考えもはかなく叶うことがないことに気づき、

主人公は、

永遠に存続し続けるであろう金閣寺を自分の手によって、

燃やそうと決心します。

 

 

 

 

小説は、実際に主人公が金閣寺を燃やし終えて煙草で一息するところで終わります。

 

 

 

感想としまして、

金閣寺を燃やそうという考えを理解するのは難しいような気がします。

ただ、主人公が自分の中にある理想の「美」というものを確固たるものにするための

唯一の方法だったということなのかもしれません。

 

 

全体を振り返って

三島由紀夫の作品を読んだのはこれが初めてでした。

まず第一印象としては、この作者は非常に鋭敏そして賢明であるということ。

書く文章が力強く、ある描写をするだけでもとても多くの方法によってそれを表現しているという点に感銘を受けました。

また、特に仏教的な考え方、またその用語が多く出てきて

知らない言葉が多かったということもあり、理解が難しいところも多々ありました。

 

この手の小説、

特に主人公が最終的に悪事を働く際(もしくは悪事を働いた後)に、

自分の美意識や、信念といったものによって、

自分の中での勝手な理論を積み立て上げて正当化していくような内容のものは

あまり自分の好みではないということに気づかされました。

 

 

ただ、後世にも渡って読み続けられている名著というものには

この手の内容の小説が多いような気もします。

ある時点で主人公の内側で何かが崩れ去り、それと同時になにか確かなものが宿る、

そしてそれによって自己中心的な考えを固め、事に及ぶといったような内容。

 

理論の組み立て方、周りの人物との相互作用による主人公の心境の変化、

主人公のもつ特有の美意識、そして潜在的に存在する確固たる信念、

それらが評価され、様々な人々に議論の種を提供するということは理解できます。

 

 

しかし、どこか私にとってはそのような自己中心的な勝手な考えによって

自分の行為を正当化するということは幼稚であるように感じて、

そこに美しさや奥深さはあまり見出せません。

 

これはそれこそ個々の美的感覚によるものであるとも思うので、

人によって持つ感想は異なるでしょう。

私にもまだ洞察力が足りていないのかもしれません。

 

次に三島由紀夫の作品を読むのはもう少し先になるような気がしそうです。。。

う~ん、難しい。

 

ひとまずもう一度振り返って考え直してみたいと思います。

 

では今回はここまで。

 

フィボナッチ数列って何?

こんばんは。

 

今日はクリスマス。

寒くなってきましたね。

   \\  \\  \\

早速ですが、皆さんは

フィボナッチ数列

というものを知ってますか?

   \\  \\  \\

聞いたことくらいはありますか?

今年話題になったドラマ「あなたの番です」でも、

黒島(西野七瀬)と二階堂(横浜流星)が理系同士ふたりで

フィボナッチ数列について話して盛り上がる場面がありました。

   \\  \\  \\

まず、フィボナッチ数列は次のように定義される数列です。

 \displaystyle
a_{1} = a_{2} = 1 \\
a_{n+2} = a_{n+1} + a_{n} \qquad(n\geq 1)

これが定義です。


a_{0}=0,\quad a_{1}=1\\
a_{n+2} = a_{n+1} + a_{n} \qquad(n\geq 0)

と定義しても同様です。

つまり、ある nでの数字は、二つ前の数字と一つ前の数字を足したものになっているということです。

では実際に代入して見ていくと、


a_{1}=1,\;a_{2}=1,\;a_{3}=2,\;a_{4}=3,\;a_{5}=5,\;a_{6}=8,\;a_{7}=13,\;a_{8}=21,\;a_{9}=34,\;a_{10}=55,\;\cdots

のようになります。

 \\  \\  \\

それで??? と思ってますよね?

 \\  \\  \\

実はこの数というのは予想もしないところで発見されます。

 \\  \\  \\

例えば、これらの数字を一辺の長さとした立方体を積み重ねてみましょう。

すると

f:id:dry-mango:20191224195026j:plain

のようになります。

これらを順に線で結んでみると、

f:id:dry-mango:20191224195033p:plain

のようになります。

まだわかりませんよね。

 \\  \\  \\

この線というのは自然の中に見つけることができます。

例えば、ヒマワリの中心の種の部分。

f:id:dry-mango:20191224195030j:plain

よく見ると、 実は先ほどの線を 左回りで書いたものと 右回りで書いたものが 合わさったものとなっているのです!

 \\  \\  \\

なんでこんなところに?って思いますよね。

実際、フィボナッチ数列の線と違う線でヒマワリの中心部を構成してみると、

隙間が空いてしまって結果として少ない種しかつけることができなくなります。

 \\  \\  \\

つまり、ひまわりは進化していく中で、

種の繁栄のためにできるだけ多く種をつけようとして、

結果としてこのような配置になったのではないかと予測できます。

 \\  \\  \\

これだけではありません。

 \\  \\  \\

アンモナイトの殻にもフィボナッチ数列の線が隠れています。

f:id:dry-mango:20191224195023j:plain

その他にも、カタツムリの殻であったり、ぜんまいの播いてある部分など、

自然界にはフィボナッチ数列が多く隠れている

のです。

 \\  \\  \\  \\  \\  \\

何と美しいのだろうか。神が、「フィボナッチ数列に従え!」といって世界を創造したかのようですね。

 \\  \\  \\

不思議。。。

 \\  \\  \\  \\  \\  \\

ここまで、自然界で見つけられるフィボナッチ数列の線について話してきました。

この線だけでなく、フィボナッチ数列の各数字自体も実はおもしろいところに見つかります。

 \\  \\  \\  \\  \\  \\

皆さん知ってましたか?

 \\  \\  \\

実はほとんどの花の花びらの数は決まっている数をとることを。。。

3枚、5枚、8枚、13枚、、、、、となっているのです。

(中には4枚の花びらを持つ花も存在しているようですが。。。)

f:id:dry-mango:20191225131324j:plain

これはフィボナッチ数列の各項の数字に対応していますね。

もう、いろんなところに出てきすぎて怖いくらいです。

 \\  \\  \\  \\  \\  \\

では最後にもうひとつ。

フィボナッチ数列の前後の項の比を次のように取っていくと、

  \displaystyle
\frac{1}{1} = 1,\; \frac{2}{1} = 2,\;\frac{3}{2} = 1.5,\;\frac{5}{3} = 1.666\dots,\;\cdots,\;\frac{89}{55} = 1.61818\dots,\;\cdots

のようになり、だんだんこの極限を取ると結局

 \displaystyle
\frac{\sqrt{5}+1}{2} = 1.6180339\cdots

と、黄金比になるのです。

黄金比に関しては別途調べてみてください)

 \\  \\  \\

もう、いろいろつながりすぎてわけがわからなくなってきたと思うので、

今回はここら辺にしておきたいと思います。

 \\  \\  \\  \\  \\  \\

へぇ、こんなところにも隠れてるんだぁ

 \\  \\  \\

くらいに思っていただけたら十分だと思います。

 \\  \\  \\

ではでは

超ざっくり!仏教と神道

こんにちは。

 

突然ですが、神社の違いを人に説明できますか?

寺は仏教側で、神社が神道側?

では、仏教神道っていったいなんなの?

どう違うの?

 

日本人が漠然としかわかっていないこの内容について、

非常にざっくりと流れを説明していきたいと思います。

 

 

仏教は、むかーしむかしインドで生まれました。

その仏教は、国が国民をまとめやすいような考え方などを含んだりし、

少しづつ変わっていき、中国、朝鮮、日本へとやってきました。

 

当時、中国は日本からすればとても進んでいた国であったので、

中国に見習おうと仏という考えを取り入れ始めました。

この時は、今まで大切にしてきた神社を寺の中に入れて、

あたかも仏が日本の神を守っているかのような感じでした。

 

しかし、中国のものを取り入れるだけでは自国のアイデンティティというものを

見失ってしまうかもしれません。

また、この時はまだそれ以前から考えてきた神様というものについても整理がついていませんでした。

 

そこで、奈良時代古事記というものを作りました。

誰でも一度は学校で習ったと思います。

これは何についての話かというと、

昔神様が天から降りてきてどのように日本ができたのか

ということを書いた神話です。これが神道のルーツです。

 

これを作ることによって、信仰の対象となるものができました。

しかし、中国で機能している仏教とは違い、まだその思想であったり、

その機能というものはしっかりとは理解できていませんでした。

そのため、この時期に日本から中国に使者を送り、本場中国で勉強してこさせ、

それを日本に持って帰らせました。

 

さて、古事記を作る前は仏が神の上の存在という認識となっていました。

しかし、実際、それはまずいのではないかということで、

神は仏がこの世に降りてきた化身であるとすることにしました。

徐々に、神と仏が同等のものであるという認識に変わっていきます。

その後、だんだんとやっぱり日本古来の神様の方が仏より上だよね、

という考え方までに至るのです。

 

とはいっても、仏教は長い時間をかけて練られているので、

生と死についてのしっかりとした思想があったりと、

人々は自分たちの疑問を問いかける対象にしていきました。

ただ、乱世に入り、仏教信者が徐々に力をつけてきたころ、

仏教を弾圧する力が働き始めました。

神道は仏教の良いものをどんどんと吸収していきました。

 

ただ、これは長くは続かず、

そこで新しく儒教というものが入ってきたのです。

これを取り入れた理由としては、年功序列の思想を含んでいたりと、

トップの人間が人々をまとめやすいという理由が大きいのです。

これを取り入れたのが、あの徳川家康です。

 

時代はどんどんと流れていきます。

儒教を用いて納めていましたが、徐々に外国への恐怖というものが高まり始め、

ナショナリズムとして神道が再び流行るのです。

国として一つにまとまるために、神道を主軸に天皇を中心とした国家づくりというものをはじめていき、この時に神道と仏教は初めてしっかりと分けられたのです。

 

これらはちょうど世界大戦頃の話です。

戦後GHQが日本に渡ってきて、今までの日本を分析した結果、

神道中心の国家づくりを抑えさせていったのです。。。

 

長々と書いてきました。

う~ん。わかるようなわからないような、わからないぃ!

 

今回書いたことは多くの間違いを含んでいるかもしれないことをご了承ください。

 

ただ、ここまで見てきて

神道と仏教は何かはっきり分かれているものではないということがわかりました。

互いに時代を共にし、時には片方が主流になったり、はたまた別の時代には一方がメインになったり。

また、ただ単に考え方だけではなく、

人々をまとめやすいかどうか、ということも大きなポイントであったということもわかります。

 

なかなか入り組んでいて複雑ですが、

もう少し様々な本を読み、徐々に理解を深めていけたらと思います。

 

今回はひどい文章を長々と連ねてしまい申し訳ありませんでした。

では。。。

 

 

 

 

 

 

「比較」

「一億人で英文法」

 

今回は「比較」について学びました。

 

 

Rather (対比のイメージ)

「むしろ~」という意味は知っていると思いますが、次のような例文だとどうでしょう?

 

⇒This steak is rather tastless, don't you think?

(このステーキ、かなりまずくない?)

この用法は知りませんでした。。。

 

他に合わせて覚えておきたいもの。

would rather = むしろ~したい

but rather = そうじゃなくて

 

 

as --- as

asの使い方はいろいろあって頭を混乱させられがちですが、知っているか微妙なものを集めてみました。

 

ex)

まずは、as と as の間には一語だけではなく、複数語入れてもいいのです。

1. She is not as good as at skiing as me.

2. Ema didn't perform as well in the exam as Naoki

3. Mike is as nice a person as Kento.

 

3つ目は少しややこしいですね。

as a nice person asというのはダメです。

あくまでも"nice"ということをメインにおいているからです。

Mike is as nice. それに続けているのです。

 

 

はい。次は様々な使い方を見てみましょう。

 

as --- as can be / as good as it gets (最高)

1. I am as happy as can be. (私は最高に幸せです。)

2. Enjoy! This is as good as it gets. (楽しんで!最高の時間だから。)

 

この使い方はなかなか見ないので知りませんでしたねぇ

次!

 

 

 

as --- as ever (相変わらず)

1. I see you are as witty as ever. (あなたって、相変わらず気の利いた事言うね)

 

なんでareがあるんだ?わからない

 

 

 

not so much as --- (---さえしない)

1. She wouldn't so much as kill an ant. (彼女はアリさえも殺さない。)

2. He wouldn't so much as look at me. (彼は私のことを見ようともしない。)

 

こちらも難しいですね。

 

 

 

as good as --- (ほとんど---同然)

1. Wow, this is as good as new! (わぁ、これは新品同然だよ!)

2. If I couldn't make it, I am as good as death! (もしできなければ、死んだも同然だよ!)

 

これは日常で使っていきたいですね。

 

 

 

asに関してはここまでにしておきましょう。

 

では最後に。

 

all the 比較級(その分だけ)

1. I like her all the better because she is so kind. (とてもやさしい分、私は彼女が好きだ。)

2. Just because the man had coughed, it made Ken all the more angry. (その男が咳をしただけで、ケンを怒らせた。)

 

 

今日はここまでとしましょう。

一気にやってもなかなか覚えられないので、毎日口に出して

スムーズに慣れてくるまで頻繁に触れていこうと思います。

 

また。。。

 

 

 

 

 

 

 

英語の学習を習慣化します!

こんにちは。

 

前回の投稿から一年弱、時間をあけてしまいました。笑

 

 

さて、皆さんは英語を勉強していますでしょうか

 

「あー、英語やらないとな。」、「どこかでやりたいとは思ってるんだけどな」

などと言ってる人たちはいくらでもいます。

僕の周りもそのような人たちばかりです。

 

では、その中で実際に英語の勉強をしている人たちはどのくらいいるでしょうか?

20人に1人くらいでしょう。。。そんないないかもしれません。

 

そのようなことを言っている大多数の人との差別化を図るためには、

やるしかありません!

 

ってことで、英語の勉強を毎日少しづつするようになりました。

 

このブログではその日に学んだことを書いて、

アウトプットをする場にしていけたらと思います。

 

いろいろな教材を使っていますが、

使っているものの一つは

「一億人の英文法」(東進ブックス)

です。

 

 

一億人の英文法 ――すべての日本人に贈る「話すため」の英文法(東進ブックス)

一億人の英文法 ――すべての日本人に贈る「話すため」の英文法(東進ブックス)

 

 

 

ネットで調べてみると、割と評価も高いのでこの本で勉強していくことにしました。

 

日本人ではわかりにくいような、感覚の部分を大切にしていて

微妙な違いなどをつかんでいける、いい参考書だと思います!

 

それでは次回から学んだことをまとめていければと思います。

 

それでは。。。。

 

 

 

 

「近代日本一五〇年」を読んで

こんにちは!

 

今年も受験シーズンがやってきました。

ひとまずセンター試験お疲れ様です。

受験生は今までやってきたことに自信をもって全力を尽くして

二次試験そして私立試験に向けて頑張ってください!

 

 

さて、前回は触れられなかった内容について書かせていただきたいと思います。

 

 

 

鎖国制度の廃止以降、日本はかつてないほど急速に発展していきました。

そのようなことができたのはなぜだったのでしょうか。

 

一つ目にはタイミングであると本書では述べられています。

日本が近代化を進め始めた時期、欧米では科学技術というものが発展したばかりであったため、日本は他国がやっていたような試行錯誤の時間を経ないままこれらの技術を取り入れることができたということです。

50年早い、もしくは50年遅かったらこのような発展は遂げることはできなかったでしょう。

 

二つ目には他国に負けずに利益を生み出すほどの労働力であります。

例えば製糸工場。当時19世紀後半以降、富岡製糸場が有名なように製糸業がかなりの利益を日本にもたらしていました。しかし、これらは女工たちの膨大な労働の上に成り立っていました。その労働環境は過酷を極めており、11時間労働を二セット、すなわちほとんど一日中工場を稼働させていたということです。

皮肉にもこのようなことを可能にしたのは、海外から入ってきた新しい機械、そして火を使わない燃える心配のない電燈の発明であったといいます。

 

科学技術の進歩は資本家にとっては利益をもたらしますが、労働者には必ずしもそうではないということに気づかされます。

 

 

さて、本書では山本先生の幅の広さ故、科学や大学のあり方についても時代によって少しずつ変わっているということが述べられています。

 

現在、「科学技術」という言葉はあちこちで用いられますが、「科学」と「技術」の意味がそれぞれ意識して用いている方は多くはないのでしょうか。

 

本来、科学と技術は全く異なるものでありました。

科学というのはどちらかというと哲学的な自然観を指していました。

しかしその後、産業革命以降さまざまな技術が発展していく中で科学というのは、

国を豊かにする技術を生み出す手段のような認識のされ方をしはじめ、

それは日本においてもそうでした。

つまり、科学が実学へとつながることが期待されるようになりました。

これは本来の科学とは異なったものとなっています。

 

現在でもしばしば理学は役に立つのか?と問う人がいます。このような質問についてどう思われるでしょうか?

素粒子のそんな性質がわかって何になるの?」

ブラックホールがについてわかってもしょうがなくない?」

などなど、、

理学をやっている人からすればこのような質問にうんざりしているかもしれません。

そこで話はそれますが、これらの質問が的を得ていないという理由をいくつか述べたいと思います。どんな返答をすればいいのだろうか。

 

一つには、

「そんなの知らねーよ。好きでやってんだよ!」です笑

基本的には理学系の科学者の本音はこれであると思います。

「好きでやっている」、充分な解答ではないでしょうか

 

そうでないとすれば、そもそも役に立つということはどういうことかということを考えてみればよいと思います。

わかっていなければならないのは、実学に近い工学、そして理学はお互い役割が違うということです。

ただ、工学の方がイメージしやすく一般の人にもどのように使われるのだろうかということが理解しやすいという点で役に立つといわれているのでしょう。

 

どこかでこのような言葉を聞いたことがあります。

「今、役に立つものは、すぐに役立たなくなる」

つまり「役に立つもの」というのは たかが知れているということです。

(全く批判しているつもりはありません。理学の役割について以下でわかっていただけるように少し強めに述べている、という点に留意していただきたい)

 

役に立つと思われているものは、現在知っているものの範囲で想像できるようなことであり、

大きなブレイクスルーとなるようなもののほとんどは基本的に何に役立つかわからないようなものから出てきたものばかりです。それは歴史を振り返ればすぐにわかります。

 

今無いものであるのだから役に立つかどうか判断できるはずもないのです。

 

かつて電磁気学の理論が完成されて、人々はそれが何かの役に立つと考えたでしょうか?(今では通信、電気、あらゆるところに応用されています。)

アインシュタインが相対論についての成果を出した際はどうでしょうか。(物理ではこれを考慮しないと理解できない現象はいくらでもある。それでも、役に立つものを言えというならば、GPSなどにも応用されている、などと言えばよいでしょうか。)

 

長くなってきましたので、最後にまとめに入ります。(まとまってない笑)

 

これはささいな問題ではありません。

現在の日本では役に立つもの(正確には、すぐに役に立つとわかるもの)ばかり重視され、国からの研究費の予算などもそのような研究ばかりにまわされていて、

基礎研究の重要性を理解されている人たちがとても少ないように感じます。

ここ例年、科学の分野でノーベル賞受賞者が何人も出ていますが、ノーベル賞を取った先生の多くは基礎研究の重要性を訴えていることにも注目していただきたい。

 

基礎研究に重きを置かなくてもある程度はうまくいくかもしれません。

しかしどこかで行き詰ってしまうのでしょう。

最近の日本の科学、そして技術レベルの停滞ぶりはこの行き詰まりを表しているのではないでしょうか。

ほとんどの分野で出遅れてしまっている日本ですが、何か大きく変化しないと

他国に取り残されて追いつけないところまで来てしまっています。

 

私には何ができるであろうか。

私も将来を担う若い世代の理系として心引き締まる思いであります。

 

読んでいただきありがとうございました。

この本を最後まで読み終えてからもう一度投稿したいと思っていますので、次回もよろしくお願いします!!